産道の記憶。

昨夜のごはんは玉ねぎとししとうをこんがりグリルした上に下味付けた鶏もも肉をのっけて焼いたんだった。

桜が丘
と名付けられ
春になれば
遊歩道に植えられた桜が
リボンのように包み込む住宅地は
職住一体となる学研都市として開発された。
この片隅にある家から
夕刻飼い犬を連れて走り出る。

自然の地形を生かした公園を通り抜け
葉の落ち出した桜の遊歩道を横切り
旧来の村落を流れる
川沿いの散歩道へと向かう。
新旧の土地をつなぐ舗装道路は
細いといっても農機が通り抜けられる幅は十分ある。
坂道となった通りの両脇は田畑が連なり
川沿いの道にT字で交わる。
道路だけがだんだん川沿いへ潜っていく地形となっているので
道の途中で見上げると
自分の身の丈の二倍はある高さの田畑に区切られて
道幅と同じだけの空が広がる。

今日も日が暮れる。

私はこの道の途中で
細くなった空を見上げるのが大好きだ。

春から夏にかけては
むっとした空気が閉じ込められて
むせかえるようなこともあるし
今日のようなさわやかな空気の日も
ここだけは一瞬風が止まる気がするが
なぜかここを通るとき
とてもしんとした気持ちになる。

なぜだろうか
それはこの道を通りぬけて
川沿いの道にたどり着いて
再び眼前いっぱいに広がる
何ものにも妨げられない空に出会えたときの
解放感からかもしれない。
でも今日
飼い犬と気が付いたことがある。
川の音や 川沿いに走る国道を往来する
細い祠のような坂道を抜けるときは
車の音すらも
一瞬消えてしまうのだ。
そして、空と同様
連続的な水の音も
車の疾走音も
再び出会う瞬間があるのだ。

ああそうか。もしかして
母の産道を通り抜けた時は
こんな具合だったのではないだろうか。
息を止めて
ただ自然に呼ばれるままに
頭を締め付けられながら
ぐるぐるとうねりながら
遮二無二先の見えない道を進んだ。
それは同時に
自分が母となり
娘っ子たちがそれぞれに生まれてきてくれたとき
何度となく訪れた陣痛に耐える時間と
それが行ってしまった後の凪の時間が
くっきりとしたコントラストを描いていた。

この散歩道を往く瞬間に
自分が生まれたときと
お産の時の記憶を呼び覚ますのではないだろうか。
だからこんなに
しんとして、苦しくて
だけど満たされた思いをするのかもしれない。

今日はそんなおとぎ話を想像しながら
だんだん陰影が濃くなる秋の宵に
飼い犬と歩く足を速めたのだった。

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